11月号|狩野氏と狩野城

 

狩野氏と狩野城。歴史をつなぎ合わせて想像してみた。


伊豆総合高校の商品開発の授業で、狩野城を取り上げてることを知り、何も知らないではいられず、少し調べてみることにした。狩野家と聞けば歴史好きの私が思いつくのが、掛け軸や襖の絵師として安土桃山から江戸後期まで活躍した狩野派。中でも永徳や探幽などは有名だ。狩野氏は藤原につながる血筋で、平安の昔から伊豆国(豆州)、それも狩野郷を本拠地としていた。城としての体裁を整えたのは鎌倉幕府開府以降であろうが、狩野城は別名を柿木ノ城とも呼ばれていたというから、現在の本柿木・柿木を中心に城下町を形成し、京、鎌倉からの物資、文化、人の行き来があったと考えられる。人形浄瑠璃、その他歌舞音曲文化のなごりが地元・柿木の祭りに以前は残っていたという口伝もあるそうだ。現在全国的にも名が知れ渡っている天城連峰太鼓も、こういった時代背景があって現代に受け継がれていると考えれば、これはもうロマンでしかない。狩野家はその後、北条早雲に、この地を追われ、没落していくのだが…。では、この狩野家と狩野派の関係はといえば、元をただせば『祖』は狩野一族であったが足利時代ごろには、狩野派の流れは本家筋と離れて、足利の地に移っていたのではないかと思われる。狩野派を興した狩野正信の比較的初期の作品と考えらえる『観瀑図』が足利市の長林寺に残っていることから、足利長尾氏に仕えていたか、何らかの関係があったと推定できる。さらに1460年ごろには京都の地で正信は絵師としての活動をしていたであろう史実や、足利8代義政に重用されていたという資料もあるようなので、1480年代には幕府の御用絵師となっていたのではないか、と、想像することが出来る。さて、こうなると狩野派と伊豆国とのつながりが見えてこないのだが、狩野派は徳川家康が江戸幕府を開いてからは、活動の拠点を関東・東海に移している。系図では『山楽』が京狩野派として京での活動を続け、『探幽』が江戸狩野派を。ここで狩野派は2派にわかれている。霊峰富士、駿河湾、伊豆国と絵師として刺激的であり、一族の発祥の地である狩野郷に、狩野派の絵師が訪れていないことの方がむしろ不自然と考える。いきさつは不明だが雲金の妙本寺には探幽、常信の作品が保存されている。また、大平・旭滝の瀑布の絵が狩野派の作品にあるとか…。口伝や資料に記されたものをパズルのように組み合わせていくと、まだまだ興味深く、面白い物語が伊豆にはありそうである。例えば、下田と江戸を結ぶ、いわゆる下田街道は、人やモノや文化が行き来している。あの吉田松陰も、ハリスもこの街道を歩いているし、伊豆の海沿いの松崎や下田などは、三崎と伊豆と伊勢をつなぐ廻船が盛んであったことから、内陸とは違う多様なモノが集まりそして全国へと発信されている。伊豆半島とは、高貴な人の流刑の地であったがだからこそ、陸路・海路で江戸や京都をつなぐ経済・文化の集積地であったと考えて間違いはないであろう。

 

 

書き残されたモノがなければそれはいい加減?


狩野家の歴史の探求は、思わぬ出会いと気づきを与えてくれる。伊豆の雑学や歴史に精通された方や、お寺の住職と会話をしていると時間を忘れ、ついおしゃべりになる自分がいる。そんな時間を通して「なるほど!」と気づいたのは、その地に残る言い伝えなど口伝、伝説は、書き残されたモノがほぼないということだ。例えば三嶋大社の鹿は、大正8年に春日大社から譲り受けて、その数は14頭と神鹿園には記されていたが当時小学生だったお年寄りたちは、間違いなく16頭だったと口を揃えて言う。学校帰り必ず立ち寄り一頭に一枚づつエサを与えていたから。ということで今は、頭数は記されてないとか…。なんでもエビデンスを求め、記録、文書が無いものは事実でないとする考え方は、逆に言えば事実とは違う記録を残すことにつながる。鎌倉期の吾妻鏡などその時代の歴史書は、当時の権力者や書き手によって史実とは違うことを記すことは当然考えられる。もちろん記録を残すことも大事だが、例えば昭和20年代の出来事を調べるなら、当時を生きた人達にインタビューするのが一番。そこにあった言い伝えや風習、祭りといった民俗の中に、遥か昔の歴史の1場面を見ることができる。

 

コトウダグループ(古藤田グループ)